御神徳

鎌倉幕府2代将軍、源頼家公が幼少の折、今の「百日ぜき」に罹り、心配した頼朝の妻二位尼君(政子)が当社に鶏肉と卵を断って病が治る様に祈願をし、頼家が回復すると御礼参りの使者として佐々木四郎高綱を社参させたといわれています。そして、その時に百日ぜきを「とりせき」という方言が生まれたとされ、実に鷲宮神社より発した方言が通じる地方は、信仰者のいる地域だとも伝えられています。

鷲宮神社の初出は、鎌倉時代に記された東鑑の建仁3年10月14日条で十四日己酉。鶴岳。併二所。三嶋。日光。宇都宮。鷲宮。野木宮以下諸社被参神馬。是世上無為御報参云々。

とあります。
これによれば建仁3年(1203)10月14日に鶴岡、二所(箱根と伊豆)、三嶋、日光、宇都宮、鷲宮、野木宮以下の諸社に神馬を奉り、世上無為の報参としたとあり鎌倉幕府から一流の霊社として遇されていた事がわかります。文禄3年(1594)検地の際に畑二反七畝二十六歩の除地を、寛文2年(1662)には徳川幕府より畑一反五畝三歩の社領を奉納されました。享保11年(1726)12月11日を以て正一位の神階を授けられ、毎年の大祭には壬生藩主より多額の幣帛が奉納され、藩主または有司が社参し、厳かに祭典を挙行致しました。

例幣使街道の宿場町でもあった合戦場は、たくさんの遊郭で賑わっていましたが、その遊郭の主人や遊女たちが商売繁盛を祈って熱心に信仰していた事もあったようです。明治35年の台風で拝殿幣殿ならびに大木はことごとく倒壊し、現在の拝殿幣殿は明治37年に再建されたもので、拝殿前に掛けられている社号額は、その3年前の34年に壬生藩主鳥居忠文公が奉納したものです。