Q&A


Q.祭りの意義について教えて?

A:『祭祀』の語は古くは養老令にも見えていますが、祭りという漢字は夕(肉の意)と又(右手の意)と示(神前に置く机の形を示し、神の意)から成り立っていて右手の肉を持って神にささげる意味であり、祀は示(神)に巳(シという音符)を付けた字で祭・祀のいずれも支那で神を祭る事を称するものですから、わが国のマツリにもこの語をあて用いたのでしょう。

マツリの語について本居宣長は古事記伝に、「祭事(まつりごと)と政事(まつりごと)とは同語で、その語源は奉仕事(まつりごと)から来たのであろう。天皇に仕え奉ることを服従(まつろう)と言い、神に仕えることを祭りと言うも、本は同じである。」と説いております。

すなわちマツリというのは人が神霊を招き鎮め、不浄を避け慎んでお側近くにかしずき御接待申し上げて慰め奉ることです。

ですからマツリには精神上の恭敬と形式上の厳美との両方を兼ね備えなければならないわけです。

かくて人が真心を込めて祭儀を行い神に接すれば、もともと神と人は同じ性質の御霊(みたま)を持っているのですから、神はその真心を感得せられ神と人とは近づき交わり、神は慈しみを垂れて守り・恵み・幸わって下さる。

すなわち人は神の心を心として清く正しく直く楽しく、その生活を通じて社会の向上発展に尽くすことができるので、これが祭の目的とするところでもあります。

近年何にでも安易に「~まつり」と付ける傾向がありますが、『まつり』と『イベント』の違いというものを良く理解しておいてほしいと思います。

Q.例祭とはどんな祭りのことですか?

A:例祭とは、その神社の恒例として1年に1回執行する祭儀で、神社の祭りの中でも最も重要な祭典とされています。

その期日はおおむね御祭神に縁故のある日とか、その神社に因縁のある日を選んで定められてあるので神社によって日が違います。

従って、特別の事情が無い限り、その期日を変更すべきものではありません。

近来、例祭日を土、日曜日にしようとする傾向が各地に見られますが、各神社の尊い伝統を単なる思い付きで改めるのは慎むべきことで、ぜひ改めねばならぬ場合も神社本庁の承認が必要です。

 

Q.祈年祭(きねんさい)とは何ですか?

A:祈年祭はトシゴイノマツリとも訓み、トシは稲の意で即ち稲種を蒔く季節の初めに当たり、その年の五穀豊穣と国家国民の弥栄とを神々に祈る祭で秋の新嘗祭と相対する極めて重要な祭典で、一般には春祭りとして知られています。

その起源は明らかではありませんが、神代の昔、大地主神(おおとこぬしのかみ)の作られた田の苗を御年神(みとしのかみ)が祟って枯れさせようとした時、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を和め祭ったので苗は再び茂ったという伝説が古語拾遺に見えています。

公事根源(くじこんげん)には『 天武天皇四年に官祭としてのこの祭りが始まる 』と見えています。

いずれにしてもこのお祭りは遠く農業が始まると共に行われてきたものと考えられます。

日本書紀に見える祟神天皇の詔に「農は天下の大本なり。民の恃みて以て生くる所なり。」とある如く、農業は我が国産業の基幹でその消長は直ちに国力に響いてくるのでした。

したがって古来農業人が最も大切な経済戦士として重んぜられたことは、山部(やまべ・狩猟を職とする部族)や海部(あまべ・漁業を職とする部族)に対し農業部族を意味する田部(たべ)という語が、すべての国民を意味する民(たみ)の語源になったこと、田族(たから・田部の人々の意)が大御宝(おおみたから)となって国民の総称を意味するに至った事でもわかります。

されば五穀の豊作を祈るこの祭りは単に農業関係者のみの祭りでなく、工商漁鉱のあらゆる産業人が、その職業を通じて国家社会の進展に貢献することを祈る意味に拡大して考えるべきものだと思います。

しかも昔は農業技術も低く農薬なども無かったので、数年に一度は凶作に見舞われ、ワラ餅や彼岸花の球根で生命をつないだ人もありました。

国民の生活を念とされる天皇は洪水旱魃のたび毎に神社に祈願されましたことは国史に明らかなところです。

かように苦労した先祖の血を受けて今の世に生を得ている我々ですから、農業技術が進み食生活に恵まれていることを神々と先祖に感謝する祭りとせねばならないと思います。

 

Q.新嘗祭について教えて?

A:新嘗祭はニヒナメノマツリと訓みます。

ニヒナメは新饗の義で、新は新穀、饗は御馳走の意を持っています。

つまり春の初めの祈年祭に五穀の豊穣を祈りましたが、神様の恵みによって今やその収穫を見るに至ったので、まず新穀をお供えして五穀の悠遠な根源を顧みるとともに広大な神恩を感謝する為に行うのが、この祭典の趣旨で普通は秋祭りと呼ばれています。

稲は南方の原産で、これが支那・朝鮮を経て弥生時代に日本に伝わったものであろうとされていますが、日本の神話では神代の昔、豊受大神が五穀を発見せられ天照大神に献上されました。

すると天照大神は「こは顕(うつ)しき青人草の食いて生くべきものなり」と仰せられてご嘉納になり天の狭田長田に栽培せられた。

そして皇孫瓊々杵尊(こうそんににぎのみこと)を日本列島に降臨せしめ給う時、随従の二重臣に対し「これは皇孫の御支配なさるべきものであるが、汝等はこれを栽培して天業を翼賛し奉れ」との神勅を下し、御手ずからその稲種を授けられた。

これが我が国の農業として発展してきた根源である、と伝えています。

従って古来我が国では皇室も国民も五穀を神の賜物として尊重し、新穀を得るたびに奉謝の祭典を行ってきました。

しかも豊作だから感謝するというようなそろばん勘定ではなく、たとえ僅かの収穫しか得られなくても、これ神恩と奉謝するのが神ながらの美風だったのです。

Q.地鎮祭にはどんな意味があるんですか?

A:地鎮祭はその土地の霊を鎮め祭る儀式で、とこしずめのまつりとも申します。

万物には霊(生命)があるというのが日本人の物の考え方ですから、土地にも霊を認めます。

国というような広い地域の霊を国魂(くにたま)とよび、建物敷地などの土地の霊を大地主神(おおとこぬしのかみ)と申します。

そこで建物を構築しようとする時、まずその敷地の主である大地主神に御挨拶する訳ですが、ついでにその土地に深い関係を持っていられる向きにも御挨拶をします。

即ちその土地を守っておられる産土神(うぶすながみ)や、その土地にかつて住んだ故人の霊とか動物の霊に対してもお供え物をして、どういう理由で、どういう工事をしますから御了解下さって御守いただきますようにと御願いするのが、このお祭りです。

明治以降物質文明の進歩に連れて日本人は古来の精神文化を失いつつあるといわれています。

神や仏の存在さえも忘れたり無視したりする人が多くなりました。

お金を出して買えばその土地は自分のものだと思い、登記をすれば法律上の所有権も確定したと安心します。

でもそれは物質上のことで、精神的に見ればその土地の本来の主である大地主神や支配者である産土神や執念を持っておられる霊魂に対しては、何の挨拶も済んでないわけです。

その結果不思議な禍いを招くもとになりましょう。

 

Q.直会(なおらい)ってどういう意味ですか?

A:ナオライはナオリアイの約で、ナオルとは平常にもどる意味です。

お祭りに奉仕した多くの者が、そのお勤めを終わって平常に戻ろうとする時に神様の霊を身に受けようとする。

これが直会の本義です。

1度神様にお上げした神饌には神霊がこもっていますから、神霊を我が身にしっかり受け入れる為にお下がりの神酒や饌米を食べるのが直会の行事です。

直会をする人数の多い場合には神饌だけでは足りませんから、いろいろと他の料理を添えることになり、従って直会といえば宴会という意味に誤解されるようになってきましたが、宴会すなわち直会ではありません。

されば直会に他の料理を出す場合にも、お下がりの神酒、饌米をいただくのを中心と考える必要があります。

今日でも神社によっては厳重な直会の儀式を伝えている所もありますが、そうでない場合でも作法としては手をひとつ打って両手で酒盃を受け、三口にいただくのが普通で、この拍手を礼手(らいしゅ)と称します。

 

Q.注連縄(しめなわ)にはどういう意味があるんですか?

A:注連縄は良く見られるように神の鎮座しているところはもちろん、神聖とみられる場所には必ず張られています。

また神体とされる神木や磐座(いわくら)とされる巨岩などにも良く見られますが、一般には神前または神聖な区域などに掛け渡し、内と外を隔てて不浄に触れさせない為に用いられるものなのです。

神話では天照大神を天の岩戸からお迎え申し上げた後、ただちに天の岩戸に尻久米縄(しりくめなわ){=注連縄}を引き巡らしたとあります。

これは岩戸から出た大神が再び中に入れないようにする為です。

また注連縄を張り巡らした所は立入り禁止あるいは神聖な場所であることを示す標識の意味をも持っているのです。

尚、お正月の注連飾りに伊勢エビやダイダイ、コンブ、串ガキなどを飾り立てるのは食物の豊作を祈念する風習からです。

 

Q,鳥居って何ですか?

A:地図にも神社のマークは鳥居で示されるように鳥居は神社の象徴となっていますが、一般的には神社の参道の入り口に建つ一種の門と考えたらいいかと思います。

1つの神社に2つ以上の鳥居がある場合は、一番外側にあるものを一の鳥居といい、社殿に近ずくに従って順に二の鳥居、三の鳥居と呼んでいます。

鳥居の原型についてはいろいろの説があって未だに定説は無いのですが、たとえば古代インドには仏塔を囲む垣があって、その垣の門をトラーナと呼んでいました。

このトラーナが形や音が鳥居に似ているところからきたという説や、中国の王城や陵墓の前に立てる門、華表が原型であるというような説があります。

鳥居という語源については『 通り入る 』というのが転化したものといわれています。

また天照大神の岩戸隠れの時、ニワトリを止まり木に止まらせて鳴かせたところから鶏居といい、これが鳥居に変化したともいわれています。

 

Q.鳥居にはどんな種類があるんですか?

A:鳥居の構造は2本の柱を立て最上部に笠木を置き、その下にあって左右の柱を貫いている貫(ぬき)を合わせて4本の柱から成っています。

この単純で純朴な形こそが原則的な鳥居の形です。

普段何気なく見ている鳥居は、みんな同じように思われがちですが良く見ると形式的にもたくさんの種類があることがわかります。

代表的なものでは神明鳥居・鹿島鳥居・八幡鳥居・明神鳥居・両部鳥居などがありますが山王鳥居・三輪鳥居なども有名です。

これらを形状によって大別すると神明鳥居系と、神明鳥居が装飾的に発展した明神鳥居系の2つになりますが全国的に最も多く見られるのは後者の明神鳥居系です。

神明鳥居は地中に2本の柱を立て笠木及び貫の4本だけで作られていますが、貫が柱の外側に出ていないのが特徴です。

この形は最も原初的で素朴な鳥居です。靖国鳥居は神明形の鳥居です。

鹿島鳥居の型になると貫の両端が柱の外に突き抜けていて、くさびが打ち込まれています。

八幡鳥居は「ころび」といって2本の柱が八の字のように下部が開いていることと、島木が笠木の下に重なるように加わり額束がついているのが特徴です。

中世以降に始まり、最も普及しているのが明神鳥居です。

この形のものは柱に台石がつき、笠木には反増(そりまし)のついているのが特徴です。

山王鳥居の最大の特徴は笠木の上に破風がついていることです。

特徴があるといえば厳島神社に代表される両部鳥居もそのひとつです。

この鳥居は本柱の前後に控柱を添えて貫でつないでいるもので、別名を枠指(わくざし)鳥居ともいわれています。

また大神(おおみわ)神社の三輪鳥居は左右に更に鳥居を半分つけたような独特の形をしています。

たいへん変わった鳥居としては明神鳥居を3つ組み合わせた形式の三柱(みはしら)鳥居があります。

Q.参道の真ん中を歩いてはいけないって本当ですか?

A:手水舎で身と心の穢れを落とし神前に向かう道を参道といいますが、参道の中央は歩かないようにするというのは神様に対する礼儀です。

参道の中央を正中(せいちゅう)といい、神様の道とされているからです。

神社の中には参道の所々に鉾立て石とか、たたり石などと名づけられた石を置いてあるのを見かけますが、これは神様が渡る石だといわれています。

ただ、神前で拝礼をする時には正面に立ってもかまいません。

 

Q,手水舎は何のためにあるのですか?

A:古くは参拝にあたって神前に流れている川で手を洗ったり、口をすすいだりして身を清めたといいます。

この形がそのまま残されているのが伊勢神宮で、ここでは五十鈴川にある手洗場で清めるようになっています。

手を洗ったり口をすすいだりする川を斎川、あるいは御手洗川といい、その行為をみたらい、あるいはみたらしといいます。

神前に川のない所では社頭に手水舎を設けて手洗場にしています。

手水の使い方は

まず右手で柄杓を持ち、水を汲んで、その水を左手に注いで清め、次に左手に柄杓を持ち替えて同じように右手を清めます。

最後に再び右手に柄杓を持って左手のたなごころに水を受け、その水で口をすすぐのが順序です。

よく柄杓に直接口をつけている人がいますが、それは間違いです。

 

Q.狛犬(こまいぬ)にはどういう意味があるんですか?

A:神社の社前に据えられている一対の動物の置物が狛犬であります。

神の守護と魔除けのために置かれているといわれています。

獅子ともいわれ、その起源は遠くシルクロードを経てエジプトのスフィンクスともいわれています。

その異形の姿が日本の犬とは違うことから外国の犬の意味で、高麗犬(こまいぬ)と呼ばれ狛犬となりました。

本来獅子と狛犬は違うもので、平安時代には明確に区別されていました。

左に置かれた口を開いた方が獅子で、右に置かれ口を閉じて頭に一角を持つほうが狛犬です。

しかし時代が下るにしたがって獅子と狛犬は混同され、神社の社前に置かれた一対は一様に狛犬といわれるようになりました。

左の口を開いているものを『 阿(あ)』といい、右の口を閉じたものを『 吽(うん)』といいます。

 

Q.お賽銭にはどんな意味があるんですか?

A:賽銭は、もともと散銭(さんせん)といい、古くは銭の代わりにお米を用いて散米または打撒きなどと称していました。

日向風土記の逸文によれば、天孫が高千穂の峰に降臨なされた時に雲が立ち込めて進むべき道もわかりませんでした。

その時、大鉗(おおはし)・小鉗(おはし)の兄弟が『 稲を千穂散じ給うならば霧が晴れましょう。』と申し上げたので、その言葉どおりになさるとたちまち雲霧は消え失せ道も開けて、無事に行幸なされることができた、ということであります。

この伝説によって、散米は古代からの風習であったことがわかります。

最近の研究によりますと、古代人の散米はその呪力によって悪魔を祓い退ける為と神饌として神に捧げる為、の二つの場合に行われているそうで、お米が貨幣の流通と共に金銭に代えられて散銭となり、神に参る時に奉る銭の意味から賽銭と書くようになった今日でも、わが心の悪魔を祓う事と神に捧げる事との二つの意味があると思います。

すなわち米とか銭とかいう貴重品を何らの代償なしに散ずることは、私欲があっては出来ぬ事ですから、人は賽銭を投げることによって心の霧を祓うのであります。

良く敬意の気持ちさえ持てばお賽銭など上げなくても良い、という人がいます。

しかし真に敬意を持つならば、おのずからそれを形の上に現さずにいられぬのが人情で、お賽銭を上げぬような人はその敬意の気持ちが無い人だと思います。

口先ばかりの崇敬よりも、たとえ僅かでもお賽銭を奉る気持ちが尊いのだと思います。

 

Q,絵馬とは何ですか?

A:絵馬というのは、もともと神社に祈願または感謝の気持ちを表す為に奉納する馬の絵を書いた額のことです。

昔の絵馬は額の形が基本ですが現在の絵馬は簡略化されて、ほとんどが小型になり板の上の部分を山形にしたものにそれぞれの願い事や絵を描いて奉納しています。

古代には神馬といって生きた馬を奉納していました。

例えば晴天を祈願するときは白い馬を、雨乞いをするときは黒い馬を神社に奉納していたようです。

しかし、さすがに奉納するほうも、される神社側も管理に手間がかかるところから木馬や紙の馬が奉納されるようになり、それが後に絵馬になったのです。

絵馬は馬の絵が描いてあるのが本来ですが、神社によって祀られている神様の使いとされる動物などを書いた絵馬もあり、たとえば稲荷神社はキツネ、天神様はウシ、弁天様はヘビ、そして鷲宮神社のニワトリなどです。

 

Q.おみくじを木に結ぶのはなぜですか?

A:おみくじには様々なことが書いてあり、その順位というか、大吉・・中吉・小吉・凶などがありますが、いずれも取りようによってその人の人生に大切な教えとなり方向を与えられるものです。

吉であっても気をつけよ、凶であっても用心して勇気を以て誠実に事に当たれば、必ず御加護があるということを示してくれます。

おみくじを境内の樹木に結び付けて帰るのは、その吉凶による御加護を神に託す心情でしょう。

万葉集には『草を結ぶ』『木の枝を結ぶ』ことが、思いを結び、思いを託す事として詠まれた歌が散見します。

おみくじを結ぶ心情も、これと同様のことだと思います。

 

Q.正しい参拝のしかたってあるんですか?

A:神社への参拝は心身を正し、清い心で神を拝すればそれで良いのですが、形に表すことも大事なことです。

その為の一定の祭式・行事作法がありますので覚えておくと良いでしょう。

まず鳥居です。

神社によっては、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居というように、いくつかの鳥居のあるところがありますが、鳥居は神社の表徴であるとともに、ここからは御神域ですよ、という神社の門として大切な意義があるものです。

したがって参拝者は鳥居を入るときは軽く一礼し、参拝を終わって出るときもまた軽く一礼するべきで、これは参拝者として守るべき心構えであります。

鳥居を入ると手水舎がありますから、そこで手を洗い口をすすいで清めます。

お清めがすんだら御神前に進み、気持ちの静まるのを待って、二拝二拍手一拝の拝礼を行います。

二拝二拍手一拝というのは、御神前で二度拝礼をして二度拍手(かしわで)を打ち、さらにもう一度拝礼することです。

この作法は参拝の基となるものですから、これを覚えておけばたいていの場合まごつくことはありません。

また各家庭に祀られている神棚を礼拝するときも、この方法に準じて行えば幼い家族も早くから御神前の作法を身につけることが出来ます。

 

Q.神前の鈴は何の為に掛けてあるんですか?

A:谷川士清の倭訓栞(わくんのしおり)に『 鈴とよむは音の清(すず)しきより名づくるなるべし。(中略)神慮をすずしめるの意なり 』とあるように鈴の音は実にすがすがしい音を出しますから、神代の昔から神霊を招く道具として用いられていました。

巫女が神楽を舞う時に振る神楽鈴がその起源らしく、かつては巫女が鈴を振りながら舞い神霊を招いて神懸かりし神の声を人々に伝える、その招霊の道具だったといいます。

神社にも拝殿に大きな鈴がつるされています。

鈴には布を編んだような長い綱(緒)がついていて、参拝の時この緒を引いて鳴らします。

鈴を御神前に掛けることは何時頃から始まったものかわかりませんが、この鈴の緒を振って音を出させ神様をお慰めする為のもので、同時に拝む人も清いすがすがしい気持ちになることが出来ます。

おそらく相当古くからの習慣だと思います。

 

Q.玉串(たまぐし)ってなんですか?

A:榊の枝に紙垂(しで)や麻を付けて神前に奉るものを玉串と言います。

その語源については手向串(たむけぐし)の略であろうといわれています。

古く用いられた実際の形式には、榊その他の常盤木(ときわぎ)の枝に木綿や麻を取り付けたもの、竹の串に鏡や玉を取り付けたものなどがあったようです。

これは鏡・玉・木綿・麻など貴重な品々を神に捧げる為に、色麗しい木の枝や竹にのせたもので、鏡・玉・織物などが主で榊や竹が従であることは歌を書いた短冊を木の枝に添えて贈答した、平安時代の風習に考え合わせても明らかです。

この鏡・麻・木綿が専ら用いられるようになり、さらに木綿の原料である楮がしだいに紙の原料になってくるにつれて木綿の代用に紙が用いられ、その形も形式化して今日のような紙垂になってきました。

こうした沿革から見れば玉串は神様に対するお供え物の意味に考えられますが、神道の世界では玉串というのは神様と人との間に立って霊威をとりつぐものとされています。

この玉串を御神前に奉り拝礼することで榊の小枝を通して人の願いが神様に伝わるとされています。

 

Q.玉串奉奠(たまぐしほうてん)の作法ってあるんですか?

A:下の図で、玉串を捧げる一般的な作法の順序を説明します。

Q.笏(しゃく)は何の為にあるんですか?

A:衣冠束帯(いかんそくたい)の正装で笏を持つ姿は、いかにも威儀を正すということを絵に描いたようで誠に美しいものです。

今では笏は神職に欠かせない用具のひとつとなっていますが、もとは笏を持つことは神職に限りませんでした。

昔の人物画や像を見てもわかるとおり官位のある人物は正式の服装をするときは必ずこの笏を持ったものです。

笏の本来の目的は君命を伝える為や奏上事項を書いておく為の板だったのです。

いうなれば内容を忘れない為の備忘のメモ代わりというわけです。

今でも神職の中には儀式の覚え書きをメモした小さい紙を笏の裏に貼ったり、祝詞を折りたたんだりして神前に出ることもあります。

昔は五位以上は牙笏(げしゃく=象牙製)とされていましたが象牙はなかなか手に入らないので白木で代用されました。

六位以下は木笏ということになっていましたが、後にその区別はなくなりました。

今はすべて木製ですが中でも櫟(いちい)の木が最良とされています。

イチイは一位に通じるとされ珍重されたのです。

 

Q.御神木(ごしんぼく)ってなんですか?

A:神社では境内にあって特に神聖視されている特殊な樹木を選んで御神木として祀っています。

御神木とされるのは、その神社にだけ自生しているものとか、ひときわ目立つ老樹あるいは巨木、またはその神社にゆかりのあるものを選びます。

御神木には注連縄を張ったり神社によっては柵をめぐらしている所もあります。

そして、これを御神体としている神社もあります。

また御神木として特定したものは無いけれども、神域内にある樹木で伐採を禁じられているものは、すべて御神木としているというところもあります。

古来、御神木は神のこもる依代(よりしろ)であるとか神の降臨するところとされているため、勧請木(かんじょうぼく)または神依木(かみよりぎ)ともいわれてきました。

山に職場を持つ木こりや猟師たちは古くから神を祀る場合、山中に御神木を選定して、そこに山の神を迎え、作業の安全と加護を祈る風習があります。

御神木の種類としては多くは松とか杉、榊などのような常緑樹が選ばれています。

特に榊は神の木と書いて『さかき』と読ませているように代表的な御神木とされています。

榊は地域によっては生育しないところがあるので、これらの地方では榊以外の樹木を御神木にしている神社もたくさんあります。

たとえば伏見稲荷では稲荷山のシンボルである杉を験(しるし)の杉として御神木にしていますし、京都の北野神社では松を、太宰府天満宮では梅の木を御神木としています。

御神木には、このように自然木を御神木とするのが普通ですが、なかには臨時に木を植えたり、あるいは伐ってきて祀る例もあります。

この種の特異な例としては長野県の諏訪大社の御柱祭(おんばしらまつり)のように山から巨木を伐り出してこれを境内に立て、神の依代として祀っているところもあります。

これなども一種の御神木とみて良いと思います。

社殿のなかった古代では御神木こそが神社の主役であったと思われるので、御神木を尊び祀る風習はその名残とも考えられます。

 

Q.千木(ちぎ)は何の為にあるんですか?

A:さきに鳥居は神社の象徴だと述べましたが、必ずしもそうと決められないところもあります。

なかには寺院でありながら鳥居のあるところがあるからです。

たとえば豊川稲荷(愛知県)や各地の聖天宮(しょうてんぐう)などです。

鳥居があるからといって神社と速断するのはまちがいです。

なぜかといいますと、これはかつての神仏習合の時代の名残がそのまま残っているからです。

鳥居の存在に対して千木と鰹魚木(かつおぎ)は寺院には絶対ありませんから、これがあれば間違いなく神社です。

千木は波風(はふ)板の先端が棟のところで交差し、上に突き出た部分のことです。

古くは比木(ひぎ)とも呼ばれていました。

千木の始まりは原始的な日本の建築様式からきていることは確かです。

その建築様式を天地根元造りといいますが、この様式は2本の垂木(たるき)を交差したものを2組つくり建物の前と後ろの端に建て、交差した2点に棟木を掛け渡した簡単なものです。

この場合、棟木に接した所から上の垂木は屋根よりも高くなっています。

この高く突き出た部分を千木といったのです。

伊勢神宮に見られる神明造りの千木は、この垂木にあたる波風が伸びたままの古い形式を備えています。

これに対して出雲大社に見られるように、交差した2本の材を棟の上に載せた千木もあります。

これを置千木といい様式的には新しいのですが装飾化されていることはいなめません。

現在、ほとんどの神社の千木はこの置千木になっています。

千木は氷木(ひぎ)ともいい、火を防ぐ意味であるとか千木は茅屋(ちや)の木あるいは違い木がつまったものともいわれています。

さらに別の説では東風をコチといい、疾風をハヤテ(古語ではハヤチ)といったように、チギは風木だともいわれています。

垂木の押さえを目的としているところから、風木という言葉には風除けの意味も含まれていると思われます。

千木には強い風を避ける為に、いくつかの穴があけられています。

さらには獲物をかかげる為の物だったともいいます。

千木の先端の切り口は伊勢神宮の内宮(ないくう)では内削(そ)ぎといって水平に切ってあり、外宮(げくう)のは外削ぎといって垂直に切ってありますが、一般的に水平に切ってあるのは女神を祀っている事を示し、垂直に切ってあるのは男神を祀っている事を示しているといわれています。

Q.鰹魚木(かつおぎ)にはどんな意味があるんですか?

A:鰹魚木は千木と千木との間の屋根の棟の上に棟に対して直角に並べた木の事です。

鰹魚木という名称は鰹木とも書かれているとおり、その形がカツオの干したもの、つまりカツオ節に似ているところからきたものです。

現在の鰹魚木は千木とともに装飾的に用いられていますが、本来は棟木(むなぎ)または茅葺き(かやぶき)屋根の防風を目的とした、押さえとして用いられていたものです。

本数は神社によってそれぞれ違いますが、一般には、奇数の場合は男神を祀っている神社、偶数の場合は女神を祀っている神社とされています。

使用されている本数は2本から10本ぐらいまでです。

ちなみに伊勢神宮の場合、内宮は10本、外宮は9本となっています。

そのほか春日造りの神社では2本、大社造りでは3本、住吉造りでは5本、神明造りでは伊勢神宮と同じく10本となっています。

 

Q.どうして神棚をお祭りするのですか?

A:私たちの幸福の根本は、やはり家庭の安泰にあるといえます。

一家がそろって神棚の前で心を込めて拝礼し、神様に感謝するとともに、これからの除災と招福を祈り加護をいただけるようお祈りすることは祖先より受け継がれ貫かれてきた美風といえるでしょう。

家庭において神棚をお祭りするということは、もちろん家族によって神様を敬うことですが、日本古来の民俗信仰である神道の理念を実践することでもあります。

目に見えぬ 神にむかひて 恥ざるは
人の心の まことなりけり

これは明治天皇の御製です。

私たちの神様に対する気持ちは、この御歌に言い尽くされているといえます。

私利私欲を捨て協調や和の精神を以て社会のために奉仕し、常に清い心を培っていくことが日本人の生活の規範であり理想とされてきました。

そうした心のあり方を『あかき心』といい表し、神慮(神様のお考え)に叶う誠の心として尊んできたわけです。

神祭りは、こうした日本古来の美風を深めます。

特に家庭における日々のお祭りが子供たちに与える影響は、大変大きいといえるでしょう。

次の世代を担う子供たちに人間が人間として生きていく為の道徳や日常生活に欠くことのできない倫理観を教える為、まず大人が日々のお祭りを通して『まことの心』を養うことが必要でしょう。

家庭でのお祭りは、そこに住む家族だけでなく神様とともにあって、家族一人一人の幸福はもとより家庭の安泰の為に不可欠なものなのです。

 

Q.神棚をお祭りする場所はどこでも良いのですか?

A:まず神棚をお祭りする場所は清らかで明るく高いところということがもっともたいせつなことです。

また家族や会社の人がお供えしたり拝礼するのに都合の良い場所であることも必要な条件です。

家庭における場所としては座敷が一般的です。

最も最近では床の間つきの座敷が少なくなりましたので、家族が集まって拝礼のしやすいリビングルームでも良いでしょう。

事務所においても役員室とか、その長たる人の席の近くなど中心となる場所の高い場所が適当です。

神棚は南向きにお祭りするようにします。

それが無理な場合は東向きであってもかまいません。

また2階がある家や集合住宅、ビルなど階上がある場合は建物の構造上どうしても人が上を歩くような場所に神棚を設置しなければならないこともあります。

そういう時は神棚の上だけ天井にもう一枚板を張るか、その天井に『雲』という字を書いた紙を貼る事が必要です。

方向が良くても人の出入りする場所の上、たとえばドアの上や障子、襖の鴨居の上に神棚を設けるのは良くありません。

これらの条件を総合的に考えて神棚をお祭りする場所を決めてください。

 

Q.お札はどういうふうにお祭りするんですか?

A:神棚の御神座(お札を納める場所)には順位があります。

中央を最上位とし次に向かって右、その次が向かって左となります。

五社造りのものは、この順位に加えて外側に向かって右、向かって左としていきます。

したがって中央には伊勢の神宮大麻を、次に向かって右に地元の氏神様、次に向かって左にその他の崇敬する神社のお札をお祭りします。

またお宮が小さい場合や、一社造りの場合は神宮大麻を一番手前にお祭りし、その後ろに氏神様、次に崇敬する神社のお札を重ねてお祭りしてください。

その他、各神社にお参りした際にいただいたお札については乱雑にならないようにお納めください。

お札が大きかったり数が増えてお宮にお納めできない場合は、棚の上にていねいに並べても差し支えありません。

Q.どうしてお札を毎年取り替えるんですか? また古いお札はどうしたら良いのですか?

A:神宮大麻をはじめ神社のお札は、なぜ毎年新しく配られるか、また、お受けすべきかというに元来神霊の宿り給うものは清浄にせねばなりません。

特にお札の多くは紙で作られている為、一年もたてば色も古びてきますから、どうしても年末に一度は取り替える必要があるのです。

その年の初めに日本国民の総祖先と申すべき天照大神をはじめ氏神様の新しい『みしるし』を拝み、それによって心持ちを一層新しくしてゆくことが神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き、清き誠をもって世に処する自覚を強めるゆえんでもあります。

古いお札は地方によってはそれが多くあればある程その家の誇りとしている所もありますが、なるべくは新しいお札と入れ換えに取り出し近くの神社にお願いしてお焚き上げをしてもらいます。

違う神社のお札でも近くの神社にお納めして差し支えありません。

ただ神社において特別の願意があって祈願していただいた御神札は、心願成就するまでお祭りしてかまいません。

成就の後は、その神社にお礼のお参りをして御神札をお納めすると良いでしょう。

 

Q.神棚のお祭りってどういうふうにするんですか?

A:神棚は神様の御座所ですから毎日のお祭りを欠かすようなことがあってはなりません。

毎朝、食事の前に一家の主人、または代表者が洗面し口をすすいだ後に神饌である米(洗米、御飯)・塩・水をお供えします。

並べ方は下の図のようにします。

お参りの作法は神社参拝のしかたと同じで、二拝二拍手一拝の順にします。

家族も同様に毎朝、神棚のお参りを欠かさないようにしましょう。

また、一度神様にお供えしたものは神気の宿るものですから、洗米などは御飯に炊き込んだりして家族全員でいただくようにします。

神饌に米・塩・水をお供えするのは生命力を得るために必要最小限なものとして、古代の人々が考えていたものです。

その他珍しいものや初物をいただいた時なども、まず神棚にお供えすると良いでしょう。

また日常の心得として神棚は常に清浄を保つようにし、決して埃などがたまることのないようにしましょう。

Q.食べ物以外には、どんなものをお供えするんですか?

A:食べ物(神饌)以外に御神前や神棚にお供えするものといえば幣帛(へいはく=幣束【へいそく】)でしょう。

神饌が食料とすれば幣帛はさしずめ衣料ということになります。

古代では幣帛はキヌという意味で用いられていたということによっても、この事が裏付けられます。

キヌは現代の絹のことではなく衣料全般を指してキヌと呼んでいたと考えられています。
幣帛は、古くは和妙(にぎたえ)・荒妙(あらたえ)ともいっていたようです。和妙は絹布、荒妙は麻布のことです。

さらに幣帛には別称には、幣物(へいもつ)・みてぐら・ぬさ・しで・にきて等いろいろな呼び方があります。

みてぐらは手にとって動かす神の依代(よりしろ)という意味で、これを巫女が手に持って舞うことによって神霊が降臨すると信じられていたのです。

幣帛の元の姿は神社、祭式、時代によっても違いますが、布、紙、玉、食品、衣服、器具、銭など、いろいろなものが用いられてきました。

のちに布や紙で作った幣を棒に束ねた御幣を幣帛というようになりました。

神社によっては幣帛を置くために拝殿と本殿との間に特別に幣殿を設けているところがあります。

幣帛も春日神社に見られるような青・黄・赤・白・黒の色紙で作った五色の御幣や大神神社の赤幣などのほか金銀の箔をした紙で作ったもの、あるいは金を延べて作ったものなど種類もいろいろあります。

Q.喪中の時はどうすれば良いのですか?

A:家族親族の御身内で御不幸があった場合は、必ず神前に白紙(半紙)を貼って五十日あるいは四十九日迄の間は神棚のお祭りを慎んで『喪』に服しましょう。

そして四十九日や五十日が過ぎて『喪』が明けたならば、ただちに白紙をはがして御神札・御幣束をお祭りして通常通り神棚のお祭りをするように致しましょう。

五十日祭や四十九日供養が過ぎてもお祭りしないまま一年中神棚を放って置くことの絶対に無いようにくれぐれも注意して、一日も早く日常の生活に復帰できるように心がけましょう。

 

Q.神社建築はどんなふうに発達してきたのですか?

A:神社の中心は本殿ですから神社建築も本殿の形式を本位に何々造と呼ばれます。
大体上古から奈良時代ぐらいまでの間は、建物のない神籬(ひもろぎ)式または磐座(いわくら)式の神社が多く稀に住宅風の建物を本殿とするものもあったようです。

後者の最も原始型のものは普通に天地根元造(てんちこんげんつくり)と呼ばれる掘立小舎式のものから生まれた形式で、直線式の極めて簡素な建物です。

これから現在伝わっているような直線的形式の各種のものが生まれたのですが、これらは間取りとか出入り口の関係で神明造・大社造・大鳥造・住吉造などの4つぐらいの形式に分けられます。

やがて飛鳥奈良時代に至って仏教建築が流行し、平安時代に入り真言宗・天台宗が興りますとその影響を受けて神社にも寺院建築の風を採り入れ、一方では宮殿風の造りも加わって曲線的形式が建築要素として加味せられ種々な新様式が生まれましたが、特に流造は簡素なうちに森厳典雅な気分を良く表現しているので、次の鎌倉時代にも盛んに用いられました。

室町時代は群雄割拠の時代ですから建築も各地方で思い思いに発達し、いろいろな形式が現れます。

中でも桃山時代に起こった権現造は東照宮の建築に採用せられて有名になり、江戸時代に非常な発展を見せました。

Q.氏神(うじがみ)様って何ですか?

A:日本中にたくさんおられる神様の中で、とりわけ私たちの日常生活に関係の深い神様、それが氏神様と呼ばれる神様です。

氏神とはもともと古代社会で血縁的な関係にあった一族がお祭りした共通の神様のことで、その一族の祖先神だったり、その一族に由緒深い神様だったりすることが多かったようです。

また氏神とは別に産土(うぶすな)神と呼ばれる神様もいます。

産土とは生まれた土地、本拠などの意味で、その土地を守護してくれる神様が産土神でした。

古来稲作を中心にしてきた日本では、一ヶ所に定住して集落を営み共同作業によって稲作りに励みました。

こうした集落全体を守ってくれる神様が産土神なのです。

しかしやがて婚姻や居住地の移動などで氏神と産土神の区別はつかなくなり、地域の人々の共同体の守り神として一般に氏神とも産土神ともいわれるようになりました。

いわゆる鎮守の社といわれる場合、たいていその集落の氏神や産土神を祭る神社です。

現在一般に氏神は氏子と対の言葉として使われています。

氏子はその神社の祭祀圏内に住み、祭りに参加したり様々な人生儀礼の際に御参りしたりする人々のことをいい、氏神とは氏子が常に信仰の対象としている神様のことをいいます。

 

Q.初宮参りってどういう意味があるんですか?

A:子供が生まれることを子が授かるとか、子を恵まれたとか申します。

両親が作ったものではない。

神様の思召しで、その御霊(みたま)を受けて生まれたのだという意味です。

『人は神の子』という日本民族の伝統的な考え方に根ざしています。

そこで子供が生まれると氏神様に初めての御挨拶に参る。

これが初宮参りです。

初宮参りの日取りは産婦が産室を出てお産の穢れを祓い清める忌明け(産屋明け)をいつにするかによって地方で差異がありますが、一般には男32日目、女33日目というのが多いようです。

初宮参りは自分が住むところの神様である氏神様や鎮守様、産土神を祭る神社に対して子供が無事に生まれたことを報告するという意味を持った儀礼です。

 

Q.七五三詣について教えてください。

A: 11月15日に七五三と申して、女7才、男5才、男女3才の子供が着飾って氏神様に参拝する習わしがありますがこれは昔の髪置(かみおき)・袴着(はかまぎ)・紐落し(ひもおとし)などの祝いから起こった事です。

髪置きは、髪立て、髪上げとも称しました。

子供は生まれると髪を剃って短くしていますが、やや成長すると髪を伸ばします。

そこで髪を頭に置くについて祝いの儀式がこれで鎌倉時代から始まったらしく、公家では2才、武家では3才に行い、時代によっては男児は3才、女児は5才となっていましたが、江戸時代に至って男女とも3才で行うことになりました。

袴着は初めて袴を着ける祝いで平安時代にはすでに行われています。

昔は身分の高い家では男女とも袴を着けたので男女児ともに行いましたが、江戸時代に庶民の間に流行するようになってからは男児の祝いになってしまったのです。

その年齢も、はじめは3才から7才の間で一定していなかったのが江戸時代から5才のものになりました。

紐落としは紐解き・帯直し・帯解き・帯結びなどと称します。

幼いうちは着物に付け紐をしますが、やや成長すると紐を取り去った着物を着け帯を用いはじめます。

その時の祝いなのでこうした名称があるのです。

すでに室町時代に行われていたようで当初は男女とも9才で行っていましたが、やがて男5才・女7才となり江戸時代末期からは女児だけの祝いとなりました。

これらのお祝いは何れも月日が一定していなかったのですが、江戸時代末期から今日のように11月15日に行うことになり、名称も総称して七五三と呼ぶようになったのです。

昔はそれぞれの儀式も厳重に行われたようですが、明治以降は生活の簡素化も手伝ってだんだん神社参拝を中心に行うことになり、家庭で祝膳を囲むに先立って父母が子供の手を引いて氏神様に参拝し、これまで育成してくださった神恩を感謝し今後の守護をも祈願することになりました。

『 子供を愛護する国は栄え、冷淡な国は衰える 』と外国の諺にも言われていますが、この七五三の如きは子孫繁栄と敬神崇祖とが結びついた、我が国独特の極めてゆかしい伝統と申すべきでしょう。

当日の服装はさっぱりした清らかなものなら何でも良いのです。

都会地に多く見ることですが、付き添いの親の着物まで新調し莫大な費用を使って綺麗を競うなどは甚だしい虚栄であります。

こんな弊害があるところから世間には七五三などやめてしまえと言う人もありますが、弊害はこれを改め良い伝統はあくまで持続せねばなりません。

七五三の日、父母と共に神前に手を合わせた思い出こそ子供に信仰の芽生えを与え、その一生を楽しくさせるものだと思います。

 

Q.厄年について教えてください。

A:厄年というのは人間の一生のうち厄難に遭遇するおそれが多い年齢のことをいいます。

医学の発達した今日でもなお忌み慎まなければならない年頃として、一般に根強く意識されています。

厄年が信じられてきたのは室町時代からで、その根拠の一つとなったのは陰陽五行思想(陰陽道)です。

源氏物語の『若葉』の巻の中に紫上が37歳の厄年に加持祈祷の物忌みをしたというのが出ています。

「厄」は年ばかりではなく月厄・日厄・時厄もあり、そのときには障りのあることをやめ厄を福に転じる厄祓いをします。

迷信的な要素が強いという理由で識者のあいだでは排斥するむきもありますが、医学的見地から合理性があるという意見もあります。

何歳を厄年にするかについては時代や性別によって異なりますが、今日では次の年齢(数え年)を厄年とするのが代表的です。

男性 10歳・25歳・42歳・61歳

女性 19歳・33歳・37歳

このうち男42歳、女33歳を大厄と称し、その前後の年も前厄、後厄と称して最も慎まなければならないとされています。

地方によっては男性が末尾に2、5、8の数がつく歳、女性が3、7、9の数がつく歳をすべて厄年とする所もあります。

厄年には厄難を逃れる為にさまざまな厄除け、厄祓いが行われます。

一般的には神社に参詣し厄祓いの祈願をし、お祓いをしてもらいますが、そのほかにも民間では2月1日や6月1日にもう一度門松を立て雑煮を食べて祝い、年内に二度の正月を迎えて年を改めて厄難を逃れようとする方法や自分の身につけているものを神社、道の辻、村や町の境、橋際などに落とすという厄落としの方法もあります。