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Q.神社建築はどんなふうに発達してきたのですか?

A:神社の中心は本殿ですから、神社建築も本殿の形式を本位に何々造と呼ばれます。
大体上古から奈良時代ぐらいまでの間は、建物のない神籬(ひもろぎ)式または磐座(いわくら)式の神社が多く稀に住宅風の建物を本殿とするものもあったようです。後者の最も原始型のものは、普通に天地根元造(てんちこんげんつくり)と呼ばれる掘立小舎式のものから生まれた形式で、直線式の極めて簡素な建物です。これから現在伝わっているような直線的形式の各種のものが生まれたのですが、これらは、間取りとか出入り口の関係で神明造・大社造・大鳥造・住吉造などの4つぐらいの形式に分けられます。

やがて飛鳥奈良時代に至って仏教建築が流行し、平安時代に入り真言宗・天台宗が興りますと、その影響を受けて神社にも寺院建築の風を採り入れ、一方では宮殿風の造りも加わって、曲線的形式が建築要素として加味せられ、種々な新様式が生まれましたが、特に流造は簡素なうちに森厳典雅な気分を良く表現しているので、次の鎌倉時代にも盛んに用いられました。

室町時代は群雄割拠の時代ですから、建築も各地方で思い思いに発達し、いろいろな形式が現れます。中でも桃山時代に起こった権現造は東照宮の建築に採用せられて有名になり、江戸時代に非常な発展を見せました。

神明造り
(しんめいつくり)

大社造り
(たいしゃつくり)
大鳥造り
(おおとりつくり)
住吉造り
(すみよしつくり)
流造り
(ながれつくり)

春日造り
(かすがつくり)
日吉造り
(ひよしつくり)
祇園造り
(ぎおんつくり)
権現造り
(ごんげんつくり)

八幡造り
(やはたつくり)
吉備津造り
(きびつつくり)
浅間造り
(せんげんつくり)


Q.氏神(うじがみ)様って何ですか?

A:日本中にたくさんおられる神様の中で、とりわけ私たちの日常生活に関係の深い神様、それが氏神様と呼ばれる神様です。氏神とはもともと、古代社会で血縁的な関係にあった一族がお祭りした共通の神様のことで、その一族の祖先神だったり、その一族に由緒深い神様だったりすることが多かったようです。

また氏神とは別に産土(うぶすな)神と呼ばれる神様もいます。産土とは生まれた土地、本拠などの意味で、その土地を守護してくれる神様が産土神でした。古来稲作を中心にしてきた日本では、一ヶ所に定住して集落を営み共同作業によって稲作りに励みました。こうした集落全体を守ってくれる神様が産土神なのです。

しかしやがて、婚姻や、居住地の移動などで氏神と産土神の区別はつかなくなり、地域の人々の共同体の守り神として一般に氏神とも産土神ともいわれるようになりました。いわゆる鎮守の社といわれる場合、たいていその集落の氏神や産土神を祭る神社です。

現在一般に氏神は、氏子と対の言葉として使われています。氏子はその神社の祭祀圏内に住み、祭りに参加したり、さまざまな人生儀礼の際に御参りしたりする人々のことをいい、氏神とは、氏子が常に信仰の対象としている神様のことをいいます


Q.初宮参りってどういう意味があるんですか?

A:子供が生まれることを子が授かるとか、子を恵まれたとか申します。両親が作ったものではない。神様の思召しで、その御霊(みたま)を受けて生まれたのだという意味です。『人は神の子』という日本民族の伝統的な考え方に根ざしています。そこで子供が生まれると氏神様に初めての御挨拶に参る。これが初宮参りです。

初宮参りの日取りは、産婦が産室を出て、お産の穢れを祓い清める忌明け(産屋明け)をいつにするかによって、地方で差異がありますが、一般には男32日目、女33日目というのが多いようです

初宮参りは、自分が住むところの神様である氏神様や鎮守様、産土神を祭る神社に対して子供が無事に生まれたことを報告するという意味を持った儀礼です。


Q.七五三詣について教えてください。

A: 11月15日に七五三と申して、女7才、男5才、男女3才の子供が着飾って氏神様に参拝する習わしがありますがこれは昔の髪置(かみおき)・袴着(はかまぎ)・紐落し(ひもおとし)などの祝いから起こった事です

髪置きは、髪立て、髪上げとも称しました。子供は生まれると髪を剃って短くしていますが、やや成長すると髪を伸ばします。そこで髪を頭に置くについて祝いの儀式がこれで、鎌倉時代から始まったらしく、公家では2才、武家では3才に行い、時代によっては男児は3才、女児は5才となっていましたが、江戸時代に至って男女とも3才で行うことになりました。

袴着は、初めて袴を着ける祝いで、平安時代にはすでに行われています。昔は身分の高い家では男女とも袴を着けたので、男女児ともに行いましたが、江戸時代に庶民の間に流行するようになってからは、男児の祝いになってしまったのです。その年齢も、はじめは3才から7才の間で一定していなかったのが、江戸時代から5才のものになりました。

紐落としは、紐解き・帯直し・帯解き・帯結びなどと称します。幼いうちは着物に付け紐をしますが、やや成長すると紐を取り去った着物を着け、帯を用いはじめます。その時の祝いなのでこうした名称があるのです。すでに室町時代に行われていたようで、当初は男女とも9才で行っていましたが、やがて男5才・女7才となり、江戸時代末期からは女児だけの祝いとなりました。

これらのお祝いは、いずれも月日が一定していなかったのですが、江戸時代末期から、今日のように11月15日に行うことになり、名称も総称して七五三と呼ぶようになったのです。昔は、それぞれの儀式も厳重に行われたようですが、明治以降は生活の簡素化も手伝って、だんだん神社参拝を中心に行うことになり、家庭で祝膳を囲むに先立って、父母が子供の手を引いて氏神様に参拝し、これまで育成してくださった神恩を感謝し、今後の守護をも祈願することになりました。

『子供を愛護する国は栄え、冷淡な国は衰える』と外国の諺にも言われていますが、この七五三の如きは、子孫繁栄と敬神崇祖とが結びついた、我が国独特の極めてゆかしい伝統と申すべきでしょう。当日の服装はさっぱりした清らかなものなら何でも良いのです。都会地に多く見ることですが、付き添いの親の着物まで新調し、莫大な費用を使って綺麗を競うなどは、甚だしい虚栄であります。こんな弊害があるところから、世間には七五三などやめてしまえと言う人もありますが、弊害はこれを改め、良い伝統はあくまで持続せねばなりません。七五三の日、父母と共に神前に手を合わせた思い出こそ、子供に信仰の芽生えを与え、その一生を楽しくさせるものだと思います。


Q.厄年について教えてください。

A:厄年というのは、人間の一生のうち厄難に遭遇するおそれが多い年齢のことをいいます。医学の発達した今日でもなお、忌み慎まなければならない年頃として、一般に根強く意識されています。

厄年が信じられてきたのは,室町時代からで、その根拠の一つとなったのは陰陽五行思想(陰陽道)です。源氏物語の『若葉』の巻の中に、紫上が37歳の厄年に加持祈祷の物忌みをしたというのが出ています。「厄」は年ばかりではなく、月厄・日厄・時厄もあり、そのときには障りのあることをやめ、厄を福に転じる厄祓いをします。迷信的な要素が強いという理由で、識者のあいだでは排斥するむきもありますが、医学的見地から合理性があるという意見もあります。何歳を厄年にするかについては、時代や性別によって異なりますが、今日では、次の年齢(数え年)を厄年とするのが代表的です。

  男性 10歳・25歳・42歳・61歳

  女性 19歳・33歳・37歳



このうち男42歳、女33歳を大厄と称し、その前後の年も前厄、後厄と称して、最も慎まなければならないとされています。
地方によっては男性が末尾に2、5、8の数がつく歳、女性が3、7、9の数がつく歳をすべて厄年とする所もあります。

厄年には、厄難を逃れる為にさまざまな厄除け、厄祓いが行われます。一般的には神社に参詣し、厄祓いの祈願をし、お祓いをしてもらいますが、そのほかにも民間では、2月1日や6月1日にもう一度門松を立て、雑煮を食べて祝い、年内に二度の正月を迎えて、年を改めて厄難を逃れようとする方法や、自分の身につけているものを神社、道の辻、村や町の境、橋際などに落とすという厄落としの方法もあります。