・式 射(しきしゃ)
神楽を始めるにあたり、四方四隅を二人の舞人が神矢を以て射抜き、殿内を清める儀式です。
・奉幣の舞(ほうへいのまい・別名を宮司舞という)
神楽開始時に、幣帛(神様への捧げ物)を持って行う礼拝の舞。通常は神主か神楽の代表者が舞います。
・翁の舞(おきなのまい)
全国の山々に住んでいる神様たち、それらの山神たちを支配している山神の総元締め、日本総鎮守の神様とも称され、第一代神武天皇の外曽祖父でもある尊い神様、大山津見神(おおやまつみのかみ)の舞です。
・春日の舞(かすがのまい)
国家鎮護の神、又その剣によって邪悪を断ち切り運勢を切り開く神様として、霊剣の神格化ともいわれる高天原随一の豪勇、武御雷之男神(たけみかずちのおのかみ)の舞です。
・天狗の舞(てんぐのまい)
村のはずれや道の辻にいて外から来る邪悪なものを寄せ付けず、村や旅人の安全を守ってくれる道祖神として、又その手に持った大鉾(おおほこ)によって道を切り開き、人々を良い方向へ導いてくれる神様としてその徳を称えられる、一般には天狗様として親しまれ天孫降臨の際に道先案内をした事で、交通安全の神様としても知られる猿田彦命(さるたひこのみこと)の舞です。
・天磐戸開きの舞(あめのいわとびらきのまい)
これは神話の中では最も有名な、天磐戸開きの話を舞にしたものです。
弟、須佐之男命(すさのおのみこと)が、天磐屋(あめのいわや)という岩でできた部屋の中に閉じこもってしまい、太陽の神様である天照大御神がいなくなってしまった世の中は、真っ暗闇になって悪い神様たちの天下となりました。困り果てた高天原の神様たちは、なんとかして天照大御神に天磐屋から出ていただく良い方法はないものかと相談し、天磐屋の前で宴会を開くことにしました。
天磐屋の前の樽を伏せて作った舞台の上で、おへそを出して夢中になって踊る天宇受売命(あめのうずめのみこと)の姿があまりにもおかしいので、まわりで見ていた神様たちはみんな大声で笑いました。
自分がいなくなってみんな困っているだろうと思っていた天照大御神は、にぎやかな外の様子を不思議に思い、天磐屋の戸をそっと開けました。するとそれを待っていた手力男之命(たぢからおのみこと)が、少しだけ開いた戸の隙間に手を差し入れて、力一杯に磐戸を開け放ちました。そして天照大御神がすっかり外に出てくると、もとのように明るく、平和な世の中が戻ってきましたというお話です。
最初に出てくるのは芸能の神様、天宇受売命。次に高天原一の力持ち、手力男之命。そして最後に天磐屋の中から天照大御神が現れます。
・恵比寿の舞(えびすのまい)
七福神の一人として、ニコニコ顔に大きな鯛を抱え、釣竿を肩に担いだ姿で親しまれている恵比寿様が、ちょっと間抜けでお人よしのヒョットコをお供に連れて、海辺で魚釣りをする様子を舞にしたものです。
・稲荷の舞(いなりのまい)
農業の神様として、またお稲荷様として知られる倉稲魂神(うがのみたまのかみ)が、五穀豊穣を祈りながら田んぼを耕し、種をまく様子を舞にしたものです。
・大国の舞(だいこくのまい)
恵比寿様とともに福の神の代表として親しまれ、因幡(いなば)の白うさぎの神話では皮をはがされて泣いているうさぎを助けて医薬の神様、さらには縁結びや国土経営にいたるまで幅広い御利益を持っている,大国主命(おおくにぬしのみこと)が打ち出の小槌を持って、福徳円満を祈る舞です。
・八幡の舞(やはたのまい)
八幡様(はちまんさま)として、又は軍神、弓矢八幡とも称えられる武家の守り神、誉田別命(ほんだわけのみこと)の弓矢を持っての勇壮な舞です。
・山神の舞(やまのかみのまい)
開拓事業、土木、治水工事の神様、又酒作りの神様でもある大山咋神(おおやまくいのかみ)の舞です。須佐之男命の曾孫だけあって、いかにも英気颯爽とした舞であります。
・浦安の舞
紀元2600年の奉祝が行われた昭和15年11月10日、午前10時に全国の神社で執行された奉祝祭で神慮を慰め奉る為に一斉に奉奏され、それ以来、今でも各地の神社で盛んに奉奏されている舞です。
紀元2600年奉祝会の制定,多忠朝作曲振り付けになるもので、歌詞は昭和天皇の御製
天地の神にそいのる朝なぎの海のごとくに波たゝぬ世を
浦安とは心の安らかという意味で、平和を祈る心の舞。古く日本の国名を浦安の国といったのは、風土が美しく平和な国という意味からだそうです。
・悠久の舞
この曲も紀元2600年奉祝の時に、時の楽長多忠朝氏によって作曲作舞された舞楽で、当時宮城広場においての奉祝祭典の時に舞われた奉祝舞楽では、男子4人によって舞われました。
その後この曲はほとんど奏されることはありませんでしたが、東京オリンピック開催(昭和39年)を奉祝して、女舞を振り付け、新しい形式の神楽舞として原曲を其のまま使用して神前に於いて舞う機会を得ました。
詠者は宏覚禅師作で、すえの世の末のすえまで我が国はよろずの国にすぐれたる国
この舞は現在4人の舞姫によって舞われ、春は桜の枝を持ち、秋は菊の花を持って舞います。
※多 忠朝 略歴
多氏は神武天皇の皇子、神八井耳命の子孫でその源を「古事記」や「日本書紀」を編纂した太安万麿(多安万呂)に発し、神楽の祖は859年に生まれた多自然麿です。
それ以来千数百年楽家として歴代雅楽を家業として神楽、右方の舞の伝統をつづけ、古くは近衛付に属して京都の公の舞楽には右方の楽人として仕えました。
明治維新の東京遷都の時に召されて東京に移り、宮内庁の楽師となりました。
多忠朝氏は明治16年(1883)4月に多忠古の長男として東京に生まれ、明治31年3月15日楽生として宮内省楽部に入り、同42年6月1日楽師に任官、昭和11年11月8日楽長となりました。
その間、神楽歌、笛、右舞で宮中に仕え、昭和天皇の御大典の大嘗会に奏される主其地方の風俗歌、風俗舞の作曲、作舞、「五節舞」の復活に尽力し、紀元2600年の奉祝に当たっては、同奉祝会事務局制定の新舞楽「悠久」楽部で新作の「昭和楽」民間で奉祝した「懐古」の三新作舞楽で創作、全国の神社の社頭で奉奏された神楽舞「浦安の舞」の作曲、振り付けなどめざましいものがありました。
昭和7年5月神社音楽協会を作って活躍、昭和20年12月に宮内庁楽部の楽長を勇退して、神前神楽舞の創作、復活、普及に専念、新作したものは百曲余に復活、普及に専念、新作したものは百曲余に及んでいます。
昭和31年10月21日没。